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2006/11/10          〜 完全さと不完全さ 〜        ・・・hibiki


 完全になろうと思えば思うほど人間は不完全になっていく。

 なぜなら、完全を目指すがゆえに自分の不完全さに焦点が合い始めるからである。

 逆に不完全になろうと思えば思うほど人間は完全になっていく。

 なぜなら、不完全さを肯定しているわけだから、あとは自分の完全さしか見えてこない。


 不完全さを目指す試みというのは、俗に言う変人的な考え方である。

 しかし、変人そのものは枠にはまらない存在を証明しているようなものなので完全に癒し系である。

 クリスタルもまた不完全さを目指す完全形である。特にエレスチャル。

 水晶の最後のかたちと言われますが、彼らの最後を見れば

 彼らがどれだけ不完全さを目指したのかがわかる。

 完全さを目指しているのであったならば、美しく透き通る透明な水晶のままで命を終えるはずである。

 しかし、彼らが目指したものは、ひとつとして同じ個体のない不完全な完全さである。

 人間もまた、その生命のルールから逃れることはできず

 完全さを求めれば求めるほど却って不完全になってしまう。


 自分がおかしな存在であることを認めてみよう。

 そしたらもっと楽に生きられる。

 クリスタルたちがそうしているように。







2006/10/14        〜 クリスタルとのチャネリング 〜      ・・・hibiki


 クリスタルとのチャネリングにはそれなりの準備が必要になります。

 クリスタルには目や口や鼻などの器官がありません。

 まずその事実を深く認識しておく必要があると思います。

 人類の後天的な思考や五感を適用させてもクリスタルは反応致しません。

 もっと根源的な人類が人類でなかった時に私たち自身が回帰しなければ

 クリスタルとのチャンネルが開かれることは難しいと思います。

 そのために知っておかなければならないことは、全ては繋がっているということで

 経験しておかなければならないのは、瞑想することによってアクセスできる自分や自分以外の

 領域の獲得感覚だと思います。全ての情報が瞑想によってもたらされるわけでもないとは思いますが

 瞑想なしでクリスタルの情報を受け取る術を残念ながら私たちは知り得ていません。

 その情報とは本当に針の穴から糸を抜き出すようなものであり、

 思考が波打っているときはかき消されてしまうようなものです。


 海や湖の底には、過去そこがどういった場所であったかを知るための

 たくさんのレコードが蓄積されています。

 そのレコードを知るためにはなぜそこに行かなければいけないかを

 自分の中で動機付けしておかなくてはならないと思います。

 その動機がなければリスクを冒して奥底まで行く必要がないのかもしれません。

 美しい湖面や魚の生き生きとした躍動を見ているほうがより人間的であると思います。

 どうしてもレコードを知りたい方はリスクの代償としてインテリジェンスを与えられます。


 皆がレコードを知れば 、いのちの営みは深く認識され

 人間はより人間的になるのではないかと思います。







2006/9/9        〜 クリスタルからの働きかけ 〜        ・・・hibiki


 クリスタルにはたくさんの働きかけがあります。
 
 その働きかけで最もわかりやすいのは眠くなることではないでしょうか。

 単に寝不足である場合もありますが(笑)  しかし、そう考えるにはあまりにも不自然な眠気に
 
 突然襲われることがあります。  そして眠ってしまった場合、眠る前に持っていた意識では
 
 考えられないような突如とした全く違ったヴィジョンを授けられます。

  (思考が覚醒した状態でも常に瞑想状態にいられる方は眠らずに
  ヴィジョンが見えてくることもあるかと思います)

 これは何を示しているかと言えば、クリスタルのチャンネル領域は

 人間の意識が覚醒した領域とはあまり重なっていないということだと思います。

 人間の意識が覚醒したという表現も、ものすごく微妙ですが

 ここでは一般的に思考が覚醒している状態のことを指したいと思います。

 ヴィジョンを授けられても”単なる夢”で片付けてしまえば、それまでになるでしょう。

 しかし、なぜ眠ってしまったのか、そしてそのことによってさっきまでの自分となにが変わったのかを

 突き詰めていくと、様々なことがわかってきます。クリスタルとのワークはこのような本当に

 微妙な領域になります。実際にエネルギーを感じる能力も向上する必要があるかもしれませんが

 エネルギーを識別し、分析する能力もかなり重要だと思います。


 私たち人間の知覚する能力というのはそれほど大差はありません。

 差がつくのは、識別を積み重ねていくという経験だと思います。

 人間を知らないのに、人間をわかる人はいないようにクリスタルも知ろうとしなければ

 わかることはできないと思います。


 難しいのは、どのようにわかろうとすればよいのかということではないでしょうか。

 しかし、最も重要な問いかけは”なんのためにクリスタルをわかろうとしているのか”

 であると思います。なにもクリスタルだけが特別なものではなく、

 人間もなにかをやろうとして助けが必要な時には、自然と手を差し伸べてくれる人がいます。

 これと同じ働きがクリスタルにもあります。クリスタルや人間だけでなく

 この現象はあらゆる存在に適用できます。であるので、クリスタルをわかるためには

 まず、自分がなにをしようとしているのかを知ることが必要になってくると思います。








2006/8/14           〜 存在と可視 〜            ・・・hibiki


 視覚は存在を確認するひとつの手段に過ぎないと思います。

 人間の外界感知能力を5つに分類したものを五感と呼びます。

 それを超えるものを日本では第六感と呼びますが(チャクラではサードアイ)

 第六感も一様ではありません。

 何万通りもあると思っても良いと思います。


 科学的にも感覚は5つではないとされていますが、”五感”という概念は漠然とした社会通念として

 私たちの能力を大きく制限している良い例だと思います。
 
 視覚や聴覚、嗅覚などの五感はそれらの人間の能力のほんの一部を

 具現化させただけのものに過ぎないと思います。

 それを人間の全ての能力であるかのように限界を設けてしまったのは悲しいことです。

 人間の肉体機能が科学的に解明されればされるほど

 論理的な体系はより複雑化し表面的な機能はより明確に把握されるようになります。

 しかし、その一方で把握されない部分は未知ではなく、

 あたかも”無”であるかのように認知されてしまいます。
 
 
 生物の機能は意志によって発芽します。

 いくら機能を解明しても意志は見えてきません。

 意志の領域はエネルギーなので現代科学では扱えません。

 しかし、歴史を創ってきたのは人間の機能ではなく人間の意志なのです。

 ここが近代合理の壁で、それを超えたものが日本のスピリチュアルなのだと思います。

 聖地で実際に感じるものは、五感を越えたものがあります。

 意識の中にじわじわと沸き起こってくるもの、言葉のように認識されるもの

 長い時間をかけて意味をわからせようとするもの、感情を呼び覚ますもの

 論理を刺激するもの、芸術性を喚起させるものなど訴えかけてくる領域は全く異なります。

 
 私たちの可能性に制限をかけているのは、私たち自身です。

 そのことを深く認識するだけで霊的な能力は格段に向上します。

 スピリットが存在しないと刷り込まれているからこそ、それを怖れたり

 感じる人に対して尊敬の念を抱いたりします。

 スピリットの存在は皆、感じています。

 その声を聞こうとしているかしていないかだけの問題なのです。

 霊的な能力の向上とは、無用な社会通念や思い込みを取り除くということと

 同義だと思います。

 その上で客観的に社会を見ることがベストだと思います。

 
 人間は皆、時間は進んでいると今では思っていますが 元々、時間などはありません。

 便宜上、昔の人が考えて生み出したものに過ぎません。

 それがいつの間にか、決定的な共有概念になってしまい

 時間がないとはどういうことなのかということさえも考えられなくなってしまいました。

 仏教(究極的に禅)は現代世界の認識を破壊するだけの回路を持っていますが、

 近代合理精神が散乱する社会に飲み込まれてしまっています。

 見えるものだけが存在であると、どうして人間は自分の能力を制限してしまうのでしょうか?

 見えるものがあれば、見えないものもあると考えるのが普通ではないでしょうか?

 こうもりやイルカの超音波や犬の嗅覚、昆虫の視覚など、人間以外の生き物には

 驚くべき能力を具現化させているものがあるのに

 なぜ人間はそれら全て理解できると思い込んでいるのでしょうか?

 理解できることがあれば、理解できないこともあると考えるのが

 またまた普通ではないでしょうか?


 晴れがあれば雨の日もあります。

 なぜ雨の日を晴れにする必要があるのでしょうか?

 存在は見えるものもあれば、見えないものもある。

 見えないものを深く知覚できる人もいればできない人もいる。

 知覚できる人が全ての面で優れているわけでもないですし

 知覚できない人が劣っているわけでもないと思います。






2006/7/22
           〜 日の光 〜             ・・・hibiki


 最近、浄化のことについてご連絡を頂くことがあるので浄化方法で最も一般的な

 太陽浄化の主役である日の光について書いてみたいと思います。

 日の光というのは人間にとっても生きていく上でとても大切な要素です。

 植物は光合成で二酸化炭素を吸収して酸素を放出します。

 動物にとっては酸素のほうが呼吸で必要としているので二酸化炭素はあまり良くない

 イメージがありますが、 両者とも欠くべからざる必要なものです。


 人間も意識の内部において、怖れを抱きます。

 これは植物の光合成における二酸化炭素に似ています。

 怖れは怖れからの解放へとつながる欠くべからざるものです。

 私たちが怖れを抱くのは、太陽がさんさんと照りつけている環境下よりも

 太陽が照りつけていない環境下での方が多い。

 これはどういうことかというと、人間は怖れ(二酸化炭素)を吸収し

 太陽で光合成を行うことによって光(信仰)を吐き出すのだと思います。

 事実は必ずしもそうではないかもしれませんが、意識の内部における怖れというのは

 人間全てに共通する元素であることは疑いはないと思います。

 そしてそれが必要なものであることも。


 怖れが太陽の光と全て結びつくわけではありませんが

 意識の晴れと曇りは、天気の晴れと曇りと原理は同じであると思います。

 人間も植物も天気も全ては同じ物からできていますので

 目に見える見えないに関わらず、現象発生のメカニズムはどれも同じように 変遷すると思います。

 浄化というのは、曇っているものを晴れの状態に戻すものです。

 もっと究極的に言うと、曇るものは必ず晴れるという原理を知るために

 浄化があるのかもしれません。

 この原理を知ることによって、曇っている時でも晴れの意識を持つことができます。

 この原理を知るまでは、自分の意識というのは天気と同様の現象に埋め尽くされています。

 これは自然の状態です。無理に変える必要もありませんが

 日の光と同化することを望めば、現象を打ち破ることができます。

 それが意志というものになります。

 意志があれば現象を越えることができます。

 例え、日の光が全く当たらない氷河時代になったとしても、日の光へ向かう意志さえあれば

 そこには目に見えない日が生まれ、現象世界の中心となっていきます。

 それは、宇宙の生成と同じ原理です。

 このようなことを知ることによって浄化もより強力なものになっていきます。

 ただ知ることだけが全てでもありません。  現象に同化することによって強化される浄化もあります。





2006/6/11
        
  〜 お守りとクリスタル 〜       ・・・hibiki


 お守りというのは私たち日本人の信仰に対するスタンスを如実に表していると思います。

 皆さんご存知のようにお守り袋の中にはなにも入っていないか御札などが入っています。

 昔からよく開けてはいけない、開けると効力がなくなるとか良く言いました。

 でも私たちは一体なにを信じてお守りを買うのでしょうか?

 実在する神が入っているとは思わないのにどうしてお守りを持ちたいと思うのでしょうか?

 
 伝統的な日本の信仰のかたちは今でも受け継がれていますが

 私たちは一体それがなんであるのかがわからなくなっています。

 私たちがクリスタルにとるスタンスもこのお守りに対する日本人の伝統的なスタンスと

 同じものです。 クリスタルにパワーがあるわけではありません。

 自らの認識にパワーがなければクリスタルと同調することは難しいです。

 なぜなら、人間もクリスタルも根源は同じだからです。

 クリスタルを自分よりも高い位置に奉れば奉るほどクリスタルは離れていきます。

 逆に、クリスタルも私たちも、水も空気も、光も闇も、全ては同じという

 認識に入っていくと全てのものと同調が始まります。

 ですので、クリスタルにパワーがあるパワーがあるということは

 私はクリスタルのことは全くわからないわからないと言っているようなものなのです。

 
 あらゆる現象を違いを認識した上で切り離さずに考える、

 それがパワーになっていき、必然になっていきます。

 自らの人生に力を与えるのは自分自身しかいません。

 パワーの発生は自分という存在を通した認識に由来しています。

 お守りもそうですね。  お守りに力を負荷するのは、持つ人の信仰です。

 お守りに神の力が実在するかどうかを問うことよりも

 お守りという存在を以って、私たちが神という価値を共有することが大切だと思います。

 
 その行為が神を実在させるのです。







2006/5/20
           〜 表現すること 〜          ・・・hibiki


 表現するよりも表現しないことによって自分が傷つくのであれば 表現したほうが良いと思います。

 自分の主観を通さないと認識できない、あるいは存在するかどうかわからない他という存在よりも

 確実に存在する自分を救ってあげることのほうが全体のためになります。


 ワンネスの意識から見れば全体は個で、個は全体ですから誰かを助けるということは自分を

 助けることであって、自分がまず全体の中で独立自尊で立脚しなければ、

 他さえも救うことはできないと思います。

 独立自尊が達成されると、自分を助けるということは他を助けることであるという認識に

 自然とつながっていきますので、自分を達成する前に他を考慮するというのは

 全体の成長を妨げる行為になります。


 日本社会では他人に迷惑をかけてはいけないという考え方が

 民族意識の深部にまで浸透していますが

 それは自分に忠実に生きるということが前提になければならず

 自分を押し殺して生きるということが前提であってはなりません。


 さらに言うと

 お互いに譲り合って神経をすりへらす社会より

 なにを言ってもお互いに傷つかないほど信頼しあっている社会のほうが良いです。


 誰しも短所はあります。それは長所を持っているがゆえです。

 あいつはほんとに嫌なところがあるけど、いいところもあると言える社会のほうがまともだと思います。

 他人の言っていることに一喜一憂するのは、自分が裸になって他人と接していないから

 怖れが生じるわけであって、ハートを開くというのは、自分の嫌なところも良いところも

 誰にでもさらけ出すということです。

 気に入るも入らないもそうすることしか信頼関係は築けないと思います。


 良いところだけしかさらけ出さない人間関係は、バベルの塔のようなもので、ひとたび、

 お互いに嫌な部分が出てくるやいなや、それはすぐさま崩壊してしまいます。

 かっこつけたり、誰かよりも優位に立とうとしたりしなくても  良いと思いますよ。

 100年もすれば今、生きている人間は平等にこの世から 消えてなくなるわけですから。


 魂は別の形で存続しますが。

 





2006/4/20
  〜満たされない時があるから 満たされる時がある〜  ・・・hibiki


 満たされない時があるから 満たされる時がある。

 人間は常に満たされ続けない。

 
 おなかいっぱい食べてもおなかは空く。

 認められようと思っても、思ったほどは認められない。

 
 他人よりも、と頑張れば頑張るほど先を行く人たちが増えてくる。

 
 でも、人間はその満たされないことを知っているから満たされる喜びも知っている。

 満たされる満たされないという表現は液体にしか使わない。

 それは私たちが水分でできていることを物語っている。

 
 そしてそれが、潮の満ち引き、月の満ち欠けと密接な関係があることも同時に教えてくれる。

 私たちは満たされない時、満ち足りた時、両方を知ることによって、意識の器を知っていく。

 
 そして、その器にのった自分であって自分ではない魂という球体との対話をはじめていく。

 





2006/4/6
            〜 輪廻のはなし 〜          ・・・hibiki


 私たちには前世はあるのでしょうか。

 その問いは多くの方にあると思います。

 結論から言いますと今のところ自分は前世はあるという解釈をしています。

 なにを根拠に前世があるというのか? と考える方がいらっしゃいます。

 それはもう既にないということを前提にしていらっしゃるので

 なにを言っても前世はないという結論に達してしまうと思います。

 ”人間は認識しようとしているものしか認識できない”  

 逆の論理で考えてみたいと思います。なにを根拠に前世がないというのか?

 肉体が滅びるから、、、  死ぬと意識がなくなるからそれで終わり、、、  色々な理由が挙げられます。

 しかしどれも憶測で100%の断定は不可能という結論に達するはずです。

 前者の思考法を科学的と呼んで人間は500年くらいかけて突き詰めています。

 でもなにも出てきません。なぜならそれが思い込みだということを知らないからです。


 例えば今日、”両生類へ進化途中の魚”がカナダで発見されたというニュースがありました。

 これは、進化論を前提にしていて、進化論に合致するものだけを抜き出しているので

 あたかもそれが正しいかのように見えてしまう現象です。

 進化論に合致するものを抜き出すのであれば、それに合致しないものをも同じように抜き出して

 対比させなければならないのにも関わらず、そういう知性は現代社会には少なくなってきています。

 いくら技術が進歩し生活が便利になっても、いくら表面的な客観的事実が体系化されても、

 自分たちが生まれでた自然を破壊し、子供たちを育てる愛を持てないのなら

 全てが幻想で思い込みであると言われても文句は言えないと思います。

 どう見積もってみても未来はありません。

 そのような近い将来を予測できない社会が果たして科学的なのでしょうか。

 後者のほうは出てきます。それが思い込みの一種であることを知っているからです。

 思い込んでなにをするのかと言えば愛を連鎖させていくのです。その分だけまともだと言えます。

 人間は信じるものしか見えませんし、知ることは出来ません。


 古代の人間はこのことを十分に理解していました。

 なぜなら人間は現象のあらゆる側面を理解できうる生き物ではないと知っていたからです。

 目の前の現象と、地球の裏側の現象を同時に知ることはできません。

 できれば神でしょうが、格別、神になる必要もないと思います。

 普通に生まれて、普通に自分の生まれた土地を愛し、普通に自分を生んでくれた人たちに感謝し

 普通に死んでいく。そうすることによって  水は蒸発し、雲になって、雨を降らし、

 また水になって流れていくように  私たち人間も普通に生まれ変わっていくのだと思います。


 





2006/3/12
            〜 存在と欲望 〜          ・・・hibiki


 自分らしい欲望というものはありません。

 欲望は誰にでも備わっているものです。

 だからこの欲望を突き詰めるということはどういうことかというと

 自分らしさを否定し続けるということだと思います。

 金銭欲というものがあります。お金を手にし、それによって満たされるとまるでそれらが、

 今まで認められなかった自分を全て受け止めてくれるような、そんな存在に見えてきます。

 しかし内実は全くの逆で、金銭欲というのは、いや欲望というものは満たされると、

 次の段階の欲望を発生させる仕組みになっています。

 その仕組みの中に囚われ、自分を消し去り、一生を過ごしていくのは、どんなに虚しいことかと思います。


 現代は向上心と金銭欲がセットにされ認識されていますが

 お金を手に入れたところで自分らしさは向上しないでしょう。

 向上するのは自分の中に存在する欲望を取り巻くシステムだけです。

 本来、向上するというのは、自分らしさを向上させるという意味でなければならないと思います。

 なぜなら、人間は”世界でたったひとつの私という存在”を認識できなければ

 生きていけない生き物だからです。


 欲望の中にその存在証明書を出してもらうというのは、高速道路に徒歩で入っていって、

 ”私のことを認めてもらえませんか”と  高速で走っている車を止めて話し掛けることと

 同じだと思います。 返ってくる答えは  ”バカヤロー”でしょう。

 そうですね、高速道路というのは車が走るところであって、認め合うところではないのです。

 と同様に、欲望もまたエネルギーが走るところであって、存在証明書を出すところではないのです。

 存在の配下でしっかりとコントロールしなければならないものだと思います。

 このように欲望(第二チャクラ)に存在を落とし込むと自分が誰であるのかがわからなくなります。


 ただ、欲望がなければ肉体活動のエネルギーが発生しませんので

 なくなれば良いというものでもありません。

 欲望と魂(存在)は持ちつ持たれつの関係にありますが、その機能を間違って認識し用いると、

 自己破滅的なエネルギーの不調和が起こり始めます。

 そのような不調和を避けるために私たちは石にサポートしてもらって

 それらのエネルギーの違いを認識する必要があると思います。

 





2006/2/12
          〜 エネルギーを通すこと 〜         ・・・hibiki


 クリスタルにエネルギーを通すということは、

 そんなに難しいことではないのかもしれません。

 エネルギーを通すというとき、何か特別なパワーというものを持っていなければいけないのでは

 ないかという思考が働きます。それをまず疑ってみることも大事だと思います。

 人間が特別な存在になって、自然を支配する。それはなにか大切なことを忘れているような気がします。

 エネルギーを通すということは、透すということであり、

 なにも考えず自分の肉体をもクリスタルにするということです。

 クリスタルは特別な力があるわけではなく、余計な考えを持っていないから

 エネルギーが伝導するのです。

 それがピュアネスやワンネス、アウェアネスと繋がっていくのだと思います。

 
 これは進化論と真っ向から対立する認識なので

 思考文明にどっぷりとつかっていると難しいのかもしれません。

 全ての存在は進化などしていなく、生を受けた時点で完全なる存在であるというものです。

 自分の大好きな禅思想”放下著”というのはこの概念をよく捉えています。

 生まれた時点に戻れば完全だから、今持っているものは全て捨てなさいという認識です。

 東洋的な認識です。何が正しいということはないと思いますが

 自分の場合は、”放下惹”のほうが良いんじゃないかなと思います。

 未来の自分を描いてそれに突き進むのは、執着になってしまうからです。

 未来は”今”という連続の結果であって、  ”今”を犠牲にする原因にしてはいけないような気がします。









2006/1/27
          〜 肩書きとスピリチュアル 〜         ・・・hibiki


 スピリチュアルとは一体何でしょうか。

 それは人によって捉え方が異なります。

 その異なった考え方を受け容れるのがスピリチュアルなのでしょうか。

 しかし、ひとつだけ共通しているものがあるように思います。

 それは、物質よりも精神を重んじている点です。

 石を例にとって考えてみるとスピリチュアルでなければ、

 石の内部の結晶構造や産地にこだわるでしょう。

 しかし、スピリチュアルは精神を重んじているため、そういう情報は単なる情報とし、

 選択の上位には位置付けないように思います。

 なぜなら、それらよりももっと重んじているものがあるからです。


 そもそも、日本でスピリチュアルという精神の復興が起こってきた背景には

 戦後の物質主義、肩書資本主義というものがあります。

 人間を出身地や肩書、家柄などの表面的な情報で判断するのはおかしいのではないかという

 エネルギーがスピリチュアルのエネルギーの一部につながっています。

 であるので、究極的には、石の受け渡しの際に必要なものは”表面の情報にとらわれない

 エネルギーを見極める眼と感じる心”ということになります。

 それもそのはずです。石はエネルギーなのですから。

 もし仮に、石に肩書だけを求めるのであれば、自らが知覚出来ないものを肩書に頼っている

 あるいは知覚することを放棄しているということにもなりかねません。

 それは、石にとってもそれを選ぶお客様にとってもあまりにも悲しいことです。

 なぜなら、人間はひとりひとり、ひとつだけのそれぞれ違う魂をもっているわけで

 自らが感じ、表現し、行動していくことによってしか幸福にはなれないと思うからです。

 それを知るために石があって欲しいと思います。


 自分の中心へ。センタリングこそスピリチュアルだと思います。  









2005/11/13
          〜 レムリアという文化 〜         ・・・hibiki


 レムリアとはなにか。

 科学的にはその存在が否定されていながらも、私たちの心を捉えるのはなぜか。

 それは単なる神秘主義なのだろうか。


 そんなことをいつもレムリアについては考えていました。

 そのヒントを今回ご紹介するレムリアンに教えてもらったような気がします。


 私たちは、レムリアという大陸の存在を共有するのではなく
 
 レムリアが持っていた文化を共有しているということを知りました。
 
 レムリアの存在がいかに論理的に否定されようとも
 
 レムリアから発生した私たちの共通認識の存在は誰も否定できません。


 無から有が発生することなどあるのでしょうか。

 私たち人類が一度も体験したことのない事実を

 たくさんの人たちが共有することなどありえるのでしょうか。


 現代世界の常識から考えればレムリアという世界はインチキくさいところがあるかもしれません。

 しかし、より高いレベルで見れば、魂を束縛している現代世界の方が

 本当のインチキと見ることもできると思います。


 レムリアと現代世界を比較してどちらかが善ということはできないと思います。
 
 しいていうならば、どちらも美というところであるのではないでしょうか。

 自由意志というレベルだけで考えれば、レムリアのほうがさらに美、ということになるでしょうか。


 誰によって名づけられたかは別にして
 
 シードクリスタルというインスピレーションが地上に出てきて以来
 
 それらが体系的に認識され、ほんのわずかに人格化されてきたということは
 
 疑いようもない事実であると思います。

 その事実自体が私たちの意識が精霊信仰が盛んだった時代に

 戻っているということを意味していると思います。


 シードは、常に、開きのエネルギーを持っているということを証明しているのかもしれません。








2005/8/23
            〜 女性性と男性性 〜          ・・・hibiki


 私たち生命体は、男性と女性という違った機能をもった存在によって

 いのちを連綿と受け継いでいます。
 
 違う機能を持った存在が形而上の共通認識(愛)をお互いに認識し合い
 
 子孫という形而下の存在を生み出していく。
 
 これが現象世界の究極的なエッセンスのモデルだと思います。


 しかし現実は、あるものは力を語り、あるものは宗教を語り、あるものは科学を語り
 
 あるものはどちらか一方だと叫ぶ。
 
 テーゼ提案の根本原理がおかしいと思います。
 
 どちらかではなく、どちらも必要なのです。


 どちらか一方を問うエネルギーは男性性、

 どちらか一方を問わないエネルギーは女性性に由来するとみることもできます。

 究極的には、なにものにも境界線を引かない女性性のエネルギーのほうが
  
 神界に近いといえます。

 しかしながら現実的にはそれだけでは
 
 問題の解決ができないというのが男性性のエネルギーの言い分です。


 日本においても、力の時代が始まるまでは、女性が神界からのメッセージを降ろし、

 男性が現実的なまつりごとを執り行っていました。

 それが統治の最高形態であるからです。
 
 中世に天皇と武家政治という権力が2重構造化したのも、

 神代の統治形態を無意識的に再現させた結果であると言えます。


 話はそれましたが、要するに女性性と男性性、両方が大事だということです。

 そして形而下の存在が発生する前に、形而上の認識(愛や思想)の共有が

 欠かせないということです。


 現代社会は形而下の存在が世界のほとんどを占領しているように考えられている時代です。

 例えば”お金”という形而下の存在は”価値”という形而上の認識を

 違った思想を持った人間が”共有”することによって成立しますが

 形而下の現象が巨大化、複雑化しすぎたため、この一連の流れの本質が見えにくくなっています。


 だから私たちはもう一度、人間存在の原点に立ち返り、愛ややさしさなどの

 目に見えない形而上の認識をお互いに確認する必要があるのだと思います。








2005/7/17
        〜 本当に時間は進んでいるか? 〜      ・・・hibiki


 石は時間を感じることができるのでしょうか?
 
 決められた時間までに結晶を終えるプログラムを自分自身に課しているのでしょうか?


 自分にはとてもそういう風には見えません。

 ある条件下である特定の性質をもって、必要のある時に必要なかたちで生まれてくる。

 そういう風に思います。


 それは私たち人間にも当てはまることです。

 必要のない人間などはいなく、というより必要でなければ生まれてきていません。

 この部分で今、多くの方が悩みをもたれています。

 それは本来、私たち人間にとっては欠かざるべき認識でありますが

 様々な要因によってその認識を獲得することが困難な社会状況になっています。


 石はその認識を元の正常な状態へと戻してくれます。

 自己の存在に対する確信
 自己の感情に対する寛容
 自己の表現に対する勇気
 自己の愛に対する深さ


 様々な色やかたちや構造やバイブレーションによって
 
 私たちに強さややさしさ、あたたかさを教えてくれます。


 その石の生き様に私たちは感動を覚え、潤いを与えられ同調を促されます。


 人間関係が希薄化し、隣に誰が住んでいるのかも知らないという

 社会環境が厳然と整いつつある今、誰かの生きざまを知り成長していくという

 構図は既に過去のものとなってしまったのかもしれません。

 私たち人間とは本来、人間関係という中で魂を受け取りあるいは受け継いでいくものでした。

 それができなくなった現在において石という存在が突如として迫ってきました。


 それが何を意味するのかはこれから先の出来事が解き明かしてくれると思いますが

 それは決して暗いことではなくシンクロとインテリジェンスをもって

 私たち新しい世代の行く道を明るく照らしてくれていると思います









2005/4/17
  〜 魂のレベルを上げるということは存在のレベルを下げるということ 〜 ・・・hibiki


 魂のエネルギーレベルを上げるためには重力波(本質を認識すること)によって

 周囲のエネルギーフィールドより重い磁場を創らなくてはなりません。


 重力波とは具体的に例えるならばへりくだることです。

 日本語には謙譲や謙遜という言葉があります。
 
 この認識が重力波を発生させる認識経路です。

 謙譲や謙遜といっても言葉を丁寧に使うという意味ではありません。


 最高の重力波を発生させるのはなんといっても感謝です。

 感謝を意味する言葉はどの民族にも存在しています(たぶん)
 
 病気や事故などから回復し、”生かされているんだ”から

 ”生かしてくれてありがとう”へと移行する時、最高の重力波が発生します。

 このとき周囲のあらゆる情報が自らの内部へと流れてきますので
 
 恍惚のエネルギー体験をすることになります。


 役行者はこの環境を人工的に創りだすことによって

 魂のエネルギーレベルを上げるやり方を知っていました。

 これらの本質的な原理は簡単です。

 全ての生命は同等ということです。

 人間だけが特別な存在であるという認識こそが目の前の現実を見えなくさせているのです。


 傲慢な政治家や経営者には誰の助言も聞こえないという

 現象がわかりやすい例かと思います。

 この場合はリーダーと助言者という図式になりますが

 人間と自然の場合でもこの原理はあてはまります。

 
 私たちは過去において全てを持っていたのにも関わらず
 
 誤認に誤認を重ねて、真なる洞察を失い続けてきたのです。

 私たちは進化などしていないのです。
 

 退化しているのです。









2005/3/4
          〜 正と邪のエネルギー 〜         ・・・hibiki


 日本では古来より正と邪の間に明確なラインを引きそれを認識して来ました。
 
 正道とは宇宙とつながる通路(エネルギーパイプ)のことを意味していますが
 
 邪道は宇宙とつながらない道を意味します。

 しかしながら宇宙とつながらないから邪は悪いということではありません。


 この正と邪を確認するためには目的と手段ということを考えてみるとわかります。

 正のエネルギーは無限の目的を持っていますが

 邪のエネルギーは有限の目的を持っています。

 ”有限の目的”を言い換えると

 正のエネルギーが単なる手段としているものを
 
 邪のエネルギーは目的としています。

 その結果、邪のエネルギーはその内部の目的を果たした後

 エネルギーは拡散(崩壊)します。


 例えて言うと、お金持ちになるということは

 社会に奉仕した結果与えられ、さらなる奉仕を要求される単なる手段ですが
 
 それを目的とした場合そのエネルギーは邪のエネルギーということになります。

 お金持ちになった時点で行き場を失ったそのエネルギーは崩壊します。


 本来私たち日本人はお金と愛とをワンセットで扱ってきました。

 お金は単なる自動車であって愛がドライバーであるからです。

 これを正道であると私たちは明確に認識してきました。

 しかしながら魂の拡散後、私たちは何が正で何が邪であるのか

 それさえも認識できなくなりつつありました。


 それがここにきて、このスピリチュアルという限定された世界において

 私たちは過去の認識を完全に取り戻しつつあるのです。









2004/10/7
            〜  リーディング  〜         ・・・hibiki


 リーディングとは魂の情報を読み取ることです。

 それはどのように行うのかというと、
 
 本質を認識することによって自らのエネルギーレベルを高め

 通常の空間より重い磁場を発生させます。

 エネルギーは重い方に流れるので周りの軽いエネルギーが流れてきます。

 それを自分の情報として読み取ります。

 あるいはワンネスによる知覚の拡大化とみることもできます。

 重要なことは認識の破壊による様々なレベルでの情報取得ということです。


 それは誰でも行うことができるのかというと、できるとも言えますしできないとも言えます。

 意志がなければできない場合もありますし、

 意志がなくてもするっとできる場合もあります。

 本質的には魂がどれくらい成長しているかに拠ります。

 一つ重要なことは虚栄心やコンプレックスを持っていると

 行うことが出来ないということです。
 
 さらに、それらはリーディングのみならずスピリチュアルの世界に

 入る時の大きな障害になります。


 具体的に虚栄心やコンプレックスとは

 自分の実際の魂よりも自分を大きく見せようとしたり

 他人より優位に立とうとする行為です。

 自分と向き合わないこうした精神性は魂を結果的に卑しめる行為であるので

 スピリチュアリティーとは交錯しません。

 ただそれらはひとつのエネルギーでもあるので否定もしないのが

 スピリチュアリズムのスタンスのように思われます。


 スピリチュアリズムは物質主義の反動として出てきたものですが

 精神主義と一言で定義づけてしまうのは少し弊害があるように思われます。

 アメリカの場合は民族的に未経験な領域への新たなる突入ですが

 日本の場合は文明の本流への回帰がその本質となっています。

 従って、本質主義と呼べるものではないかと思います。

 世界の交通網が発達し経済や文化が国境を越える度合いが高まり

 私たちが国家や民族をなにによって認識するのかという問いが

 私たちをこの本質主義へと移行させる要因であると考えられます。

 この本質主義が出す答えというのは全ての魂は同等であるという

 答えであって、これが世界的に発現すると意識のビッグバンとは

 逆の現象、意識の集約が行われて世界がひとつになる可能性が

 現実的に高くなってきます。


 本質を認識するためにはどうすればいいのかというと

 直感を訓練してセンタリングを行うことです。

 センタリングとは客観的論理を自らの行動と考え方にむやみに持ち込まず、

 価値判断基準を自分の内に置くことです。

 客観的論理というのは科学的に既に証明された理論や社会で

 一般的に理解されている概念です。

 それは反社会的行為ではありません。

 社会は常に変化し続ける生き物ですから

 それを既に完成されたものとして固定化するのは、逆に

 文明を衰退させる反社会的行為です。


 それは現在の社会が固定化されているということを意味しているともいえます。

 もっと厳密に言うと固定化されていると認識され続けられているのです。

 本質的には社会は一部の人たちによって流動しているのですが※1

 それ以外の方たちにとってはテレビの映像を見ているように

 自分以外の世界で起こっている自分以外の出来事であると認識され続けています。

 その結果、自分の人生さえもその中で起こっているかのように認識してしまい

 人生の重要な選択が突然湧いてきたかのように感じ

 選択の失敗による精神的苦痛を全ての終わりかのように錯覚してしまいます。

 
 これを回避するためのライフフォース(生きる力)の復活が

 私たちの活動理念の一つです。

 センタリングはそれを実現するための入口のようなものです。


 (※1例えば20%が流動していると認識していて80%が固定されていると
 認識していれば、本質が流動していても、現実的には固定化されている状態になります。
 これは人によって現象をとらえるレベルが違うということを意味しています。)