葛藤の多摩丘陵
Man or no man center of the earth |
多摩にたまたま引っ越してきました。
というのは冗談で、この土地に導かれてきました。
この土地の自然は本当に美しい。
起伏のある丘陵地帯。里山の手付かずの自然。
そして人工的に整備された自然。
これらが美しく調和しているように感じます。
ここは急速な開発が進む地域です。
ここに来て2ヶ月も経たないというのに、既に数ヶ所、空き地だったところがあっという間にまるはげにされました。
私はしっかりとここで見届けたいと思います。私たちがどうなっていくのかということを。
自分がここに住まなくとも、ここの開発は日夜、繰り広げられます。
人間の欲望が暴走しているのかのように感じられますが、実際にここに住まわれている方々は環境を重視する環境志向の強い方々です。その方々の想いがこの開発を牽引しているのでしょうか。
そうではないように思います。
さて、
美しい多摩の丘陵地帯にずらりと建ち並ぶマンション群。
自分はいつからこのコンクリートたちを自然と調和した構造物だと認識するようになったのだろうか?
高校生の時には少なくともそう認識していなかった。
函館で見た夜景が100万ドルだと聞いて、ネオンやそれを作る人間がいない方が100万ドルだと
感じたことは覚えているから。
なにを中心に据えるかによって世界観は変わってくるのでしょう。
マンションを建てるときに一体どれくらいのコオロギを犠牲にしたのだろうか?
この無数のマンション群を見るとこんな問いが浮かんできた。
近くの公園の昼の時間帯で、1平米あたり1〜2匹の泣き声がするので、
1平米あたり10匹くらいはいそうな感じです。
仮に4000平米の敷地だと最大で40000匹という膨大な犠牲の上に私たち人間は暮らしていることになります。
別段、コオロギは押しつぶされるわけではないかもしれないれど、結果的にはやはり追い込まれると思います。
いずれにしても、黒澤明の映画ではないけれど、発狂するほうが正常なのか
発狂しないほうが正常なのかわからない状態だと思います。
ここは本当に手付かずの自然が残されているので余計にそういうことを感じてしまいます。
トンボやカマキリや鳥がとてもひとなつっこいところが更に悲しみを誘います。
人間とは恐ろしい生き物ですね、本当にそう感じます。
でも、かといって私たち人類が悪い存在であるとも思わない。
私たちも他の生物と同様に、既に存在していて、地球上で生きる権利を有しているはずである。
経済的な発展をしなければ、様々な分野において脅威にさらされるわけですし、貿易による経済交流を加速させ、多国間の共依存度を増大させ戦争を抑止するという考え方は、やはり間違っていないように思う。
しかし、この無造作に広がる都市化をどう考えればよいのだろうか?
土地を経済的な尺度で考えれば、コオロギが住んでいるよりは、人が住み、商業が営まれ、貨幣価値が発生したほうが良いということになる。これが資本主義というものなのですね。
現代世界は資本主義が倫理を越えてしまったのではないだろうか?
もともと資本主義というイデオロギーが生まれる前には豊かな理想世界のビジョンがあったはずである。
しかし、現代世界において誰が資本主義の向こうに理想世界を見出しているだろうか?
私たちの胸に去来している思いはこうではないだろうか。”それ以外の選択肢が見つからない”
私たちの倫理を超えて、民主主義と呼ばれるものによって、政治はあたかも民意を繁栄しているかのように
認識され国際政治は国家という空想上の箱を衝突させ、国民をあらゆる戦いに大義という名のもとに動員する。
はたして、それは人間に付随するものなのか?
国家、国際資本、国際政治。これらはなんのために生まれたのか?
これらが生み出す現象を理解し、ゴールを設定している人間がこの世に存在するだろうか。
予測不可能な方向へ進んでいるものが予測可能な方向へ方向転換することなどあるのだろうか。
私たちが守るべきものはなんであるのか?
コオロギか?人と文化か?それとも戦争のない自由世界か?
その視点によって、環境主義者、社会国家主義者、自由資本主義者に分かれていく。
どれも間違ってはないと思う。でもどれも最高の答えではないとも思う。
資本主義国家の中に社会主義コミュニティーを創っていくのがベターではないだろうか。
最近はそう考えるようになってきた。
いやそう考えるようになってきたというより、考えていたものが表面化してきたといった方が
より正確であるかもしれない。
9.11後、私たちは今までとは違う世界を模索してきた。
いや、この言い回しもまた少しニュアンスが違うような気がする。
戦後社会の中で私たちは既に違う世界を胸に秘めて成長し、それを物質化する時期がきたのである。
9.11は、その着火点にすぎない。
資本主義でも社会主義でも、ニューエイジでもないイデオロギーによって私たちはつながり始めている。
現代世界においてパワーとは経済的なパワーを意味する。
ほんの60年前までは軍事的なパワーがパワーだった。
そのパワーシフトは現実の力には比例していない。経済的なパワーはどちらかと言えば形而上のパワーだ。
人間の基本的な欲求が満たされれば、現実に力を持つものが形而下から形而上のものへと変遷していく。
様々な人々によって information
technology
は、私たちの社会を爆発的に進化させると予測された。
しかしながら、それは経済的な力の時代に少し改変を加えたようなものでしかなかった。
なぜならそれは単なる手段であったからである。
情報技術の発達より私たちが注目すべきことはアジアの急速な経済的な発展である。
それは、ある程度の努力をすれば最低限の物質的な豊かさは手に入れられるということを意味していた。
そのことによってなにが変わるのか?
私たち人類は意識のビッグバン以降、貧困、差別、支配から逃れるためにほとんどのエネルギーを費やしてきた。
それは、あるいは神が自己を神たらしめるために私たちに与えた試練なのかもしれない。
現代世界のエネルギー潮流の主流に存在するものは豊かになりたいという欲求である。
それが満たされたとき、世界のエネルギーはどこに費やされるのだろうか?
(2005.11.05)
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