富士山vs大室山の裏側
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 伊豆の大室山に行って来ました。

 標高はあまり高くありませんが、斜面に木がほとんど生えていないので
 近くから見ると、緑がまぶしくて、とても霊的に異様な感じがします。

 頂上までリフトで5分ほどで行けます。
 火口の周囲は遊歩道になっていまして20分ほどで1周することができます。

 火口とは言っても、火口内部は完全に埋まっており、なぜだがアーチェリー場になっています。

 その火口の内部の中腹に磐長姫を奉ったほこらがあるのです。

 大きな岩があるので、おそらくその岩をご神体にされているのだと思います。

 なぜだがわかりませんが、この神社の縁起を見て納得しました。

 磐長姫はここだなと思いました。

 これから後、この部分を広げていくと思いますが
 この感じはとても重要なものだと感じました。

 なぜかと言うと、この大室山には伏線があって、西側の麓に浅間神社があります。

 ここがものすごく気になって立ち寄ったのですが、ここは本殿がなく

 おそらく大室山がご神体だろうとおもわれます。

 もしくは鳥居奥にある巨木。
 
 
 
 
ここを考えると、富士山の周囲に存在する信仰。

 すなわち日本武尊と木花咲耶姫信仰が、なぜ自分の内において納得がいっていなかったかを

 強烈に感じることができました。

 

 すなわち、もともと伊豆周辺の信仰は巨大なもので
 磐長姫はその中心に存在していました。


 そこへ、日本武尊と木花咲耶姫が持ちこまれたのだと思います。

 この伊豆と富士山周辺、そして群馬の浅間山周辺の霊的エネルギーに
 ひとつの一貫性が浮かび上がってきます。

 火山⇒巨石⇒依代⇒磐長姫⇒浅間山⇒浅間神社

 
 

 
日本神話内においても、磐長姫から木花咲耶姫へとレジーム転換が起こったのは
 とても重要な意味があると思います。

 そしてそれはある大きな王朝の交替があったわけで、その前王朝が伊豆周辺であったとしても
 なんら問題はないのです。

 富士山と対立するレジームを持っているのは、ここ大室山だけではありません。

 筑波山もそうです。

 しかし、筑波山と大室山は対立していないように思います。

 ここまで来ると、大山祇と磐長姫神話は相模伊豆周辺の神話であることが
 濃厚になってくると思います。

 これで、大山祇神社を瀬戸内に打った意味が完全に解けたのです。

 それは、三島信仰撹乱と富士山信仰上書きをもセットにしていました。

 そして東国の王たちを日本武尊として描いたのもかなり力が入っています。
 
 手の込んだやり方です。

 本質が僻地に散乱している。
 しかし、目立った土地やスポットは史書に忠実に存在している。

 あたかも、捏造を証明しているようなものです。

 もし仮に、中心部が本質ならば、その本質は周囲にまで一貫して広がっているはずである。

 しかし、日本古代史の本質は周辺部にこそある。




 もともと伊豆周辺が文化的に遅れた土地であるということは誰が宣伝したのでしょうか?

 役小角が伊豆配流となっていますが、逆に彼は水を得た魚のように
 周辺の霊山を踏破していただろうと考えられます。

 大和朝廷にとっては磐長姫信仰そのものが理解し難く、野蛮なものと映っていたのではないか。

 だから、役小角も未開の野蛮な地に流した。

 しかし、そこは日本古来の信仰が盛んだったから、役小角は逆に水を得たのではないか。


 ここまで、考えると山梨の丸石信仰や男根信仰、一宮が浅間神社であることの意味が
 あるひとつの直線となって見えてくると思うのです。

 来宮神社、伊豆山神社も参拝しましたが
 ”エネルギーは地形によって顕される”です。

 来宮神社は真ん前を残念ながら新幹線が走っています。

 都内にある八幡神社の場合もそうですが、前に幹線道路があると
 エネルギーのほとんどが休眠してしまいます。


 エネルギーは静寂によって生まれます。


 神社がなぜそこにあるのかを考えれば、地形がどれだけ重要であるかがわかります。

 開発が進み、四方を道路で囲まれている神社もたくさんありますが
 ほとんどそれは想像によってしか、わずかばかりのエネルギーを手繰り寄せることでしか
 エネルギーを授受することはできません。


 エネルギーを目的として参拝する時は、その土地が過去のエネルギーフィールドを維持しているのか
 ということも非常に重要になってくると思います。


 なぜそのようなことが必要かというと、機能していない神社を巡ることは信仰の為には良いですが
 機能している神社を巡るのは、実際に言葉を受け取り
 その言葉を繋げていくことこそに意味があるからです。


 それが、まあ、呼ばれるということですが、魂に言葉が差し込むと絶対に逃れられません(笑)




 
(2007.6.28)



追記

 火の神がなぜ磐長姫なのだろうか?ということを考えるとたくさんのことが見えてきそうである。

 箸墓の被葬者がほとを突いて亡くなったというシンボリックな伝説を引用すると
 縄文時代から続く命を生み出す存在には女神格化が行われたということだと思う。

 女性のほとからは命を繋げる子孫が生まれてくる。

 鉄を生み出す山や場も神格化された。

 何かを生み出す存在は古代の日本人にとっては女神だったのである。

 では、男性神とは何をシンボライズしているのだろうか?

 まず真っ先に浮かぶのが”力”である。

 女性の本質が(神格化されたエッセンスが)何かを生み出すというのあれば

 この逆を還せば、男性は何も生み出さないということである。


 確かに”力”が男性のシンボライズエネルギーであれば
 力は何も生みださないという結論になる。

 この本質的な問いこそ、古代日本人の神格化に対するスタンスであり
 原初的なエネルギー認識ではないだろうか?


 こう考えると、磐長姫などは完全にエネルギー世界の住人であるが
 ニギハヤヒはそうでないのかも知れない。

 実際にエネルギーを使っていた人間という感じがする。


 この意味でいうと、磐長姫と箸墓被葬者はつながる。


 どこでエネルギーから人間に変わったのか?
 これこそが日本神話の不思議である。


 やはり、エネルギーを拝んでいたのが
 いつしか、そのエネルギーを降ろして宿すという革命を起こした人間がいる。

 神人だと思うが。


 その時期というのはやはり弥生時代ではないだろうか?


 このエネルギー認識の擁護派と
 そのエネルギーを宿した勢力が戦うと後者が勝る。

 このレジームの対立こそ、邪馬台国と大和の本質的な対立ではなかっただろうか?



 神の力は使うのか?拝むのか?


 




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