
神奈川県で小倉山という山を見つけた。
小さいけれど、ものすごく存在感がある。
時代が時代ならば、信仰の山になっている
ことでしょう。
手前に写っている新興住宅と駐車場に停まって
いる新しい車たちがまるで、御山に背を向けて
いるようです。
日本人は一体どうしたというのでしょうか?
神代はもちろんのこと、古代から現代まで山岳信仰は連綿と引き継がれてきました。
自然から恵みを頂き、生かされているということを、つい最近まで、ほとんどの日本人が認識していました。
それが今はどうでしょう。日本人が向いているのは山ではなく、このホームセンターなのです。
(ホームセンターの屋上から撮影しました。)
ホームセンターが悪いというわけでありません。私も好きなので良く行きます。
それもそのはずです。
戦後、実際に人々の生活を豊かにしたのは間違いなく神ではなく、ホームセンターだからです。
だとしたら、神とは、恵みを与えたり、守ってくれるというのが必須条件なのだろうか。
それでは、あまりにも現実的で利己的であるように感じる。
いや、人間とは古来よりそういう生き物かもしれない。
古来より、御山を信仰し、そこからの恵みで生きてきた日本人の信仰の核が”御山”から”資本”へと変わった
ということは、究極的には、私たちは西新宿のビル群を奉り、そこからばらまかれるお金を尊崇しているという
ことになる。これは相当程度当たっているように感じる。
全てを豊かにするものではないとわかっていながら、それ以外の選択肢を選択できないというのは
もはや資本主義は信仰の核たる”神の器”を有していないのではないだろうか。
資本主義に神を載せる。
自分の最大のテーマである。そうしなければ、やはり、自然破壊はとめどなく行われる。
圏央道を高尾山に通す計画がある。絶対にやってはいけないと思う。
この事業を進める役人も国土発展を考えてのことだと思うが、その国土発展がGDPを主体に
考えられているから高尾にトンネルを掘るなどというアイデアが浮かんでくるのだと思う。
”なぜ高尾にトンネルを掘ってはいけないのですか”
”信仰の山だから”
”なるほど”
この会話が成立しないことに問題があります。
この日本人の信仰に対する解釈を変えないと、とめどなく神は消えていきます。
霊山が破壊される前に、私たちの認識の中の神が既に破壊されているのです。
現実の破壊はその結果に過ぎない。
神の再生は実は日本社会では何十年も前から”ロールプレイングゲーム”の中で始まっていて、
自分も大好きなんですけど若い人の間では、かなり模索され続けています。
自分はもう少し、それを観念的な段階から現実的な段階に降ろしたいという想いがあって、
自分の仕事にものすごく投影させています。
でも、今、次の段階に入らなくてはいけないという状況が徐々に創られつつあります。
多分、講を発展させた形をイメージしているのですけど、漠然としすぎていて、
実現ははるか先といったところです。
(2005.12.6)
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