土左大神 神刀一口 とは何か?
やっと巡り巡って、土佐のことを書けます。 土佐には流刑地土佐という自虐史観があります。 でも675年天武朝で神刀一口を献上する土佐高賀茂大明神とは一体誰なのでしょうか? どこの馬の骨かわからない流刑地の一神社が果たして 刀を天皇に献上などできるのでしょうか? 明確な由緒がなければそんなことはできないのではないでしょうか? 下手すれば時の天皇に対する侮辱になります。 もし仮に、京都の賀茂神社が正統な賀茂氏の大明神であれば 天武天皇へは京都から神刀が献上されるべきだったと思います。 天武朝においては土左大神が賀茂の本体であったことは明白です。 しかも天武朝では三種の神器という概念が生まれており 神刀を献上することがどういうことを意味するのか 考えればすぐにわかることだと思います。 天武天皇が壬申の乱の折、伊勢周りで近江に入りますが 葛城勢力をバックに持っていたことが伺えます。 この時は、土佐も天武天皇派だったことが容易に察することができる。 そもそも雄略朝で一言主を土佐に放逐し、伊勢に葛城の神、豊受大神を外宮に 奉っているのである。 しかし、一言主を奉る土佐神社の西には葛城神社、さらに西には屋船豊宇気姫を奉る 岡豊という土地がある。 昔は豊岡と呼ばれていて、古代より豊穣な土地である。 しかも土佐神社のご神体はイワクラで 賀茂氏なので銅鐸とも深い関係がありそうなのです。 このことを考えると、土佐が一言主が流刑されたことで栄えた流刑地というのは 全く認識違いであると思う。 このような状況から考えると、先の岡豊付近には田の神、豊宇気姫を奉る 葛城系の一族がおり、奈良の葛城へと入植したが 雄略朝で出戻りを余儀なくされたというところが正確なところだろうと思う。 その時に葛城勢力の祟りがあまりにも酷かったので 伊勢に天照の外宮として豊受大神を奉ったのだろうと思う。 しかし、その翌年に雄略天皇は崩御されているので 少し手遅れになったのだと思われる。 もともと、土佐が流刑地であるということが馬鹿げていると思う。 完全な日本書紀史観で朝廷の創作である。 大阪から船を使えば間単に行けてしまうのに 何を罰するというのだろうか? そんなに鄙びたところだったら紀貫之も悠長に日記など 書けていなかっただろうと思うし 流刑地から神刀が出てくるというのは、全くもって矛盾している。 出雲から国譲りがあったのだったら 一言主を下野させるのも、神刀を献上するのも 出雲のはずである。 雄略天皇と同じ格好をしていたのだから 明らかに王家です。 しかも葛城山での逸話は雄略天皇が正統な後継者でないことを 証明しているようなものです。 |